もう少し続きを。
ウルル・カタジュタ国立公園にはたくさんのツアー会社があって
地元アナング族のツアーもある。
今回は一番大手のツアーに参加したので
ガイドさんも白人。
どちらにしても、これはツーリズムなんである。
そういうなかで、アナング族の神話と、科学的な岩の来歴などが語られるんだけど
今回は、その中身じゃなくて、語りのモードそのものに関心が行ってしまった。
わたしたちは誰で、語り手は誰で、語られている内容は何で
そして聴いているわたしたちは、どんな体験をしているのか。
これはいったい何か。
ガイドの語りを録画して、繰り返し聴いてみる。
アボリジニの絵画を眺めて、画廊のオーナーや、あるいは画家本人の語りを聴いてみる。
そこには、ぼくをくたびれさせる何かの成分がある。
物語を巡るいろんなことが、「面白い」、とは言える。
でも、本当に奥底から突き上げてくるような
こころが開いていくような、そういうものはない。
物語は、何とか語り継がれてはいくだろう。
でもそれはぼくのではない。
なぜなら、語り手の望みがそこにはないから。
その物語は、ぼくへのギフトではないから。
「泉の話」で辿り着いた、物語やイメージの湧き出るところ。
物語を受け継ぐよりも、物語の生まれ出るところへ赴くこと。
「Heart Mountain」はまだ道半ば。
そしてCommunity Atelierの構想は孕まれたばかりだ。